平成16年(2004年)9月12日
誘惑。M・シュトレール・ヴィッツ著 松永美穂訳 2310円
女性の逞しい成長過程を描く
作者マーレーネ・シュトレールヴィッツは、同郷(オーストリア)のイェリネクとともに「現在活躍するヨーロッパ人女性五十人」の一人に選ばれている。彼女は劇作家としての活動後、小説家としては一九九六年にこの作品でデビューした。物語は自伝的要素が色濃く、ウィーンを舞台に、時代設定は一九八九年である。大恋愛の末に若くして結婚し、娘二人をもうけたが、夫は恋人をつくって出て行き、養育費も支払わない。三十歳になった彼女は広告代理店でパートとして働く。作品はこの主人公の、子どもや同僚と過ごす日々を軸に、彼女の友人yや新たな恋人との関わりが織り込まれている。
題名の「誘惑」は、恋の誘惑の他に、自殺や人を殺したくなる誘惑などシングルマザーに降りかかるさまざまな誘惑を意味する。だが主人公はこれらに打ち勝ち、逞しく成長してゆく。
小説は「夜中の三時に電話が鳴った。」と始まるが、電話と車は作中で大きな役割を担う。助けを求めるのも、罵りあうのも電話を通してであり、また車で移動中の情景描写が多い。流れ行く風景や電話での会話は、現代人の外界や人間との直接的関わりの希薄さを表しているのではないか。
この作品が収録されている鳥影社の「女の創造力シリーズ」には、女性が男性(父・夫・息子)から受ける(精神的・肉体的)暴力を描いたものが多い。
『誘惑。』においても、主人公が、裁判長の父と研究者の夫から受けた暴力がさりげなく語られ、家庭内暴力が階級を問わず密かに浸透している怖さがあぶりだされるが、その手法は見事である。これら暴力や権力も作者の取り扱う主要テーマである。文章は主語や述語が省略されたものや短文などが多用され、これも既存の文学とは異なるものを、という女性作家のある種の作品傾向を表している。翻訳はリズミカルで原書のもつ雰囲気をよく伝えている。
日本女子大学教授 宮本絢子