平成16年(2004年)6月27日
記者が選ぶより
ジムルターン I・バッハマン著 大羅志保子/訳 2310円
戦後オーストリアを代表する女性作家で、1973年に47歳で死去したバッハマンの遺作短篇集が邦訳された。年齢も境遇も異なる5人の女性が「何も起こるはずがない」日常を生きるさまが描かれる。
彼女たちは国際会議で知り合った男女達と車で旅をしたり、美容サロンに入り浸ったり、久しぶりに帰郷して昔の散歩道をたどったりする。だが、その身体は断崖絶壁の細道をゆく人のようにこわばり、一歩踏み誤ればたちまち過去の感情の深みに堕落してしまう。
過去の感情とは成就しえなかった恋だけではない。登場人物の会話には忌まわしい戦争、死と破壊の記憶がふんだんに盛り込まれている。作家は38年のナチスによるオーストリア併合を、生涯にわたって克服すべき「傷」ととらえていた。さらに、詩人のツェラーンや作曲家のヘンツェなど芸術家とのプライベートな交流も、彼女の人生に陰影を与えている。バッハマンは歴史が負った「傷」と個人の「傷」の両方を自信の感情に沈潜させることで、かくも痛切な物語を紡ぎ出した。(良)