「奈良新聞」

平成18年(2006年)8月13日(水曜日)

日本の新聞をカラーに変えた男 高取 武 著

夢と信念をつらぬき通す
 新聞をカラーにするということは、いまでこそ当たり前の事実で、だれも異論を唱えないが、何とそのことを戦争が終わって間なしの飢餓の時代から考えていた男がいた。中日新聞の加藤登一である。彼は戦争中爆弾が雨のように降ってくる中で、必死になって輪転機の炎燃を防いだのである。
 戦後はまだ誰も考えていなかった新聞の多色印刷を口にし推進に努めたがひとり四面楚歌(そか)の中に立たされた。だが、彼は決して屈しなかった。新聞のカラー化といっても、せいぜい赤色を部分的に加刷する程度で、まして多色刷りなどは夢のまた夢であった。しかし、夢と信念を持つ男は強い。彼のひたむきな情熱を認めたのか、味方も一人二人と徐々に増えていった。そのプロセスに至っては、たとえば特殊なインキの開発や、写真の網目の問題、マスキング(色の修整)やスクリン線の変更など、専門的知識も必要になり、一通りの苦労では及ばなかった。
 戦後はまだ復興の途次にあり新聞のページもまだ2nのいわゆるペラといわれた時代であった。そんなときにカラー印刷をいったのだから皆から白眼視されたこともよくわかる。それで、紙の供給もいく分緩和されてくるが、カラー印刷への試し刷りに要する刷り損と称する専門用語でいうヤレ紙の量がばかにならず、果ては会社をつぶす気かともなじられ、散々な目にあった。
 そうした紆余(うよ)曲折を経て遂に昭和二十五年四月二十一日、うなりを上げて高速多色輪転機が、五色の虹の橋を紙面に刷り上げていた。だが、そこには残念ながら加藤登一の姿はなかった。四カ月ほど前に病没していたのである。その後、新聞の多色印刷は長足の進歩を遂げ読者の期待にこたえていることはいうまでもないが、その原点はあくまでも加藤登一が戦火の中で必死になって輪転機を守ったことにあるのではないかと思う。ともかく技術の世界は日進月歩、先人の功績を踏まえながらもつぎつぎと新しいものが開発されていく。カラー元年以後の動向に注目すべきであろう。
(文芸評論家・嘉瀬井整夫)

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