平成18年(2006年)8月16日(水曜日)
母へ弟へ 生きて生き抜いた日々 白名誠一書簡集 鷲岡 澄子 編
悲しみ伝えたい戦後61年 より
「死ねる事」23歳の遺書
戦地からの叔父の思い、自費出版
松江市の書店「千鳥書房」の総括部長、勝部功さん(58)はこの夏、ある単行本の売り込みに走り回っている。タイトルは「母へ弟へ 生きて生き抜いた日々 白名誠一書簡集」。元日本兵が戦地から家族に送った手紙と写真を収録した。
6月、趣味の安来節の大会に参加して偶然、著者の鷲岡澄子さん(67)=愛知県犬山市=と知り合い、自費出版のいきさつを聞いた。
「島根の若い人たちに読んでほしいという思いに突き動かされた」と勝部さんは言う。
鷲岡さんは松江市宍道町出身。28歳で松江を離れ、愛知県で就職した。今回の出版のために3年前からカルチャーセンターの自分史教室に通い始めた。教室生の紹介で長野県の出版社を知り、出版を頼んだ。
鷲岡さんの叔父に当たる白名誠一さんは1920(大正9)年、鳥取県米子市で生まれた。奥出雲町や松江市で育ち、17歳で上京。東京の洋服店で修業をしていた40(昭和15)年、召集され、中国へ。43年12月、パプアニューギニアの島での戦闘で亡くなった。23歳だった。
それから54年余りたった98年2月。誠一さんの14歳下の弟瞭悦郎さんが64歳で亡くなった。葬儀が終わった後、鷲岡さんは瞭悦郎さんの松江市内の自宅で遺品を整理している最中、押し入れの中に桐の箱を見つけた。ふたを取ると、中には麻ひもで巻いた黄ばんだはがきと封筒の束が詰まっていた。松江市北堀町の母と2人の弟にあてた誠一さんからの便りだった。
「叔父の便りをこのまま葬ってはならない。本にして世の中に出した」
はがきや封書は64通に上った。写真も100枚以上残っていた。
「君国の為に尽くさんとしている今、ただ元気いっぱいです」
中国から届いた最初のはがきにはこうつづられていた。
「篠つく雨の様に降りしきる敵弾の中を掛け回って敵弾にやられた兵の治療をして仮包帯するのです」
41年春、負傷兵を救護する衛生兵の訓練を終えた直後のはがき。この後、中国中部から北部に向かった。
「母上様、お元気ですか。甫坊、瞭坊には魚の骨までも食べさしてください」
北部の前線に移ってからも、弟たちへの気遣いは忘れなかった。
「どうか子供達の為に、そしてお母様御自身の為にも、お母様を知っている人々の為に、どこまでも強く生きてください」
43年8月8日に着いたはがき。戦況が激しさを増し、身に危険が迫っていることをうかがわせる。
8月17日付の消印が押された書留。白いA4判の和紙に一文、毛筆で記されていた。
「死ぬ事と見つけたり」
自分の最期を予期して、したためた遺書だった。
本が完成した7月中旬、母校の松江市立女子高校に本を寄贈した。
「若い人たちが死ななければならない戦争を二度としてはいけないと、強く感じます」
(上原賢子)