「図書新聞」

平成18年(2006年)7月8日(土曜日)

素朴なる疑問 松本 道介 著

言葉による表現者に重い投げかけ
どうしてこうまで西洋という権威に弱いのか
皆川 燈

 久々に小気味いい文章を読んだ。舌鋒鋭い「西洋文明偏重」批判は、著者がドイツ文学史の研究者であるだけに、強い説得力で迫ってくる。カントやヘーゲルといったドイツ哲学、デリダ、ラカン、ガタリ、といったフランス構造主義の書物はわからなくて当り前なのだと言われて、日頃のコンプレックスが慰謝されたような感じがした。
 本書は「季刊文科」に連載した「視点」という名のコラムをまとめて単行本化した、『視点』、『反学問のすすめ』につづく三冊目の文芸エッセイ集である。
 著者はここまで書いていいのかな、というくらい作家に対しても評論家に対しても率直に自身の感想をぶつけていく。著者の書くものは裸の王様の子供のようだとよく言われるそうだ。「それは長年同人雑誌批評(文學界)をやってきたせいなのである」と著者は自己分析している。「同人雑誌の小説はすべて無名作家のものである。前評判のたぐいや評論、解説もまったくついていない。となるといっさいの先入観や権威主義を離れて、裸の目でと言おうか、自分にとって面白いかどうかだけを基準に読むことになる。(略)その結果が次第に権威主義に対する批評になってきたのだが、日本人はどうしてこうまで西洋という権威に弱いのかという思いは強まるばかりだ」(コラム「砦I」より)
 冒頭では高島俊男の『漢字と日本人』にふれながら、次のように述べる。
「Gottを神、nichisを無、Ichをおのれと訳す時いったいどこに誤りがあろうかと人は言うであろうが、これらの言葉こそはまさに“観念”であり、それゆえに、これらの“観念”が人間の頭に宿るとき、彼我にあってどれほど異なるもの、いやまさに似ても似つかぬものがうごめくかを考えてみると、まさに薄気味わるい思いに襲われる」(17頁)
 そもそも翻訳不可能なものに無理やり言葉を与えて一層難解なものに仕上がった西洋の哲学や思想を日本の知識人は懸命に受容しようとした。俳句に事寄せて言えば「フランス文学者桑原武夫は俳句をその批評性思想性の欠如ゆえに近代芸術としての資格を欠いた“第二芸術”だと決めつけたが」「スタンダールやバルザックを生み出した当のフランスが百年後の一九五〇年代に最早彼らのような作家を生み出しえなくなっていたことを中村(註・光夫)や桑原はどう考えていたのだろう」と著者は語る。
 現代に目を転じて、たとえば村上春樹の『海辺のカフカ』にも著者は首をかしげる。自分は私小説が好きだから、とことわりつつ「世界自身をからだごと経験した末にメタファーが出てくるのではなく、世界自身を欠いたままメタファーばかり口にするからこの小説はむなしいのである」そして、「するする読むことはできるにしろどう見てもうつろなこの小説を面白く読むとか絶讃するというのはどんな読みかたをするのかという好奇心から二篇の評論を眺めてみたが」、その二篇は小説読者としてでなく広義の研究者として読んでいる感じなのだと指摘する。
 「記号論のむさしさ」は三浦雅士の『出生の秘密』をめぐる評論。漱石がヘーゲルに傾倒していたという論の運び方は当時翻訳のなかったヘーゲルなのに、と著者にはどうしても納得できない。また「出生の秘密」というキーワードで漱石を読み解くにしては、既成事実に寄りかかりすぎていて、新鮮で切実な息遣いが伝わってこないと残念がる。
 こうした率直な物言いや疑問の呈し方を通じて、著者は何もかも言葉にしてしまうことの限界を周到に語っているのだ。言葉で説明できないことの中にこそ真実があると。
 それを端的に伝えているのが次の一節であろう。愛するホフマンスタールの「チャンドス書簡」を引いて次のように著者は語る。「(チャンドスは)鳥や鼠どんなに小さな生きものであれそれぞれの生命と一体化できた時の感動(略)を十分に語るためにはどのような言葉も足りない、何か“言葉なき言葉”といったものの力をたのむしかないと語っています。読者としての私はこの“言葉なき言葉”の力を借りるしかない感動をもの語る文章のもつ魅力に陶酔感を覚えるのです」(「わが“転向”」)
 『海辺のカフカ』への言及から言葉を借りれば「世界自身をからだごと体験した」末に出てくる作品こそが私たちの心に届くのだということと、それは同義だろう。
 本書に収められた著者の最終講義「ひとつの結論」は、「身体全体で生きるというのはとても大切なことだと思います」と締めくくられている。シンプルだが、言葉による表現にかかわるものには重い投げかけである。
(「らん」同人)

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