平成18年(2006年)7月15日(土曜日)
ロマネスクの透明度 高橋英夫著
作者名から作家という人間を回復
読者をひとりの人間として文学作品を
読む場所へと連れ出す力をもつ
田中和生
作家について考えつめたエッセンスがみなぎる
二十二人の作家についての、長さは四百字詰めで言うと十枚に満たないものからせいぜい三十枚ほどの、二十三の文章があつめられた作家論集である。それぞれが短いので気軽に読むことができるのだが、どの文章にも著者がひとりの作家について考えつめたエッセンスがみなぎっていて、一つ読むたびにその作家の著書を引っぱり出したくなったり、あまり読んでなかった作家について大事なことを教えられて考え込んだり、自分の考えが補強されてぜんぜん関係のない本が読みたくなったりして、わたしもあれこれ楽しみながら時間をかけて読み終えた。実にぜいたくな本である。
小説というジャンルについて、ここ数十年、長篇ばかりが注目されるようになったせいで、短篇小説の技術がすっかり失われてしまったというのはよく聞く話である。わたしはおなじようなことが、文芸評論というジャンルについても言えるのではないかと思う。というのは、大きな問題をあつかった長篇評論や一冊まるごとある作家を取りあげた作家論ばかりが刊行されて、短くて内容のある作家論はあまり書かれなくなったし、単行本のかたちでお目にかかることはほとんどなくなってしまった。少なくとも本書のような喜びをあたえてくれる作家論を書くことのできる人は、時代が下るにつれて確実にいなくなっている。
著者は「あとがき」で言う。
≪作家論集を出すのは暫くぶりである。十年近く、こうした内容の本をつくることができなかった。さまざまな機会に書いてきた作家論がずいぶん溜まって、堆くなっていた。それについては出版界の現況や読者の環境が、前とは様変わりしてしまったことが、一因として挙げられよう。作家論というジャンル自体がいまは古びてしまったのだ、こんな声もその中に混ざって聞える。
しかし文芸評論にとって、作家論を書くことはまず基本的、基礎的な頭脳と指の訓練を意味しており、それと同時にこの仕事こそ文芸評論の一番中核的な部分を築いてゆくことでもある。この点は以前も今日も変らない筈だと私は思っている。≫
わたしは、けっして声高ではないが強い意志の込められた、「この仕事こそ文芸評論の一番中核的な部分を築いてゆく」という言葉に打たれる。あるいは現在、ジャンルとしての文芸評論が不振なのは、その「一番中核的な部分」がないがしろにされているからかもしれない。そしてそれは、「出版界の現況や読者の環境が、前とは様変わりしてしまった」原因の一つであるだろう。(後略)
(文芸批評)