「東京新聞」

平成16年(2004年)10月14日(木曜日)

イェリネクのノーベル文学賞によせて 中込 啓子

音楽でみがいた感性で社会の不条理暴く
 スウェーデン・アカデミーのエルフリーデ・イェリネク(57)へのノーベル文学賞受賞理由「社会の決まり文句の不条理さや逃れられない権力を比類のない言葉の情熱で暴露する小説や戯曲で、対立するさまざまな声を音楽的な流れにのせているため」は、作家本人が語っていた言葉をすぐに想起させた。
 イェリネクの指定されたウィーンの文学カフェでのことだった。崇高な芸術的素材とサブカルチュア的素材が作品中でバランスよく描かれていることに私が触れたとき、イェリネクは自分がうけた厳しい音楽教育とたぶん関係していると答えていた。膨大な長さの小説を厳密な言葉違いと細やかな感性でまとめあげる手腕と耐久力とは、ミスタッチせずに難解な曲を最後まで演奏するピアニストの芸術的完成度と似ている。
 おりから、二〇〇〇年九月、ウィーン大学ではドイツ語学・文学者世界大会開催中だった。彼女を扱った発表者がいたかと訊かれて、戯曲『スポーツドラマ』を扱った発表を聞いたと言うと嬉しそうだった。数日後もう一度お気に入りの和食レストランで会うことになった。ちょうど、母のオルガさんが九十六歳で危篤状態にあったときだった。
 ドイツ放送の映像で「これ以上の賞はないですから」と言いつつ、喜びと誇りと不安を語るイェリネクは、母の望みどおりの世界一流のピアニストにではないが、世界を極めた作家になった。昨今の日本で文学を書く側や評価、出版する側の売れ筋を狙った基準とは随分と文学の質やレベル、文章のきめの細やかさや奥行きが違うなと痛感しながら、『ピアニスト』や『したい気分』を翻訳し終えていたところに、この文学賞受賞の朗報である。
 私の仕事も、イェリネクの個人的趣味の世界におつきあいしているだけなのかと時々は不安に駆られたが、今回の受賞でイェリネクの文学が、女性の書く文学という周辺的括りを超えて、世界に広く認められたのだと、安堵する。
 長身で優美な形姿と、優しくデリケートな人柄を髣髴とさせる話し方とは裏腹に、イェリネクはオーストリアのキリスト教社会や制度、男女間闘争を冷徹に長編小説や戯曲に結実させてきた。決然とした挑発的態度の裏には、女性が政治の世界で男性と同数を占めることは決してないだろうという諦念が垣間見える。しかし鋭い人間洞察によるユーモアも巧みである。『ピアニスト』では、ヒロインのエリカに作者が仕掛けた言葉の上での男性化、つまりジェンダーの転換を、探偵小説を読むような面白さで読み解くことができる。『したい気分』では、人間のセクシュアルな営為を日常のインテリアや小道具に置き換えた幾とおりもの比喩的表現に読者がどれくらい気づくかに面白さがかかっている。
 ミュンヘンでコンピューターの会社を経営する夫ゴットフリート・ヒュングスベルクに月に十日ほどミュンヘンで会うほかは、ウィーンの自宅で夫の設置したコンピューターで執筆にいそしむ。自宅の庭を好きな日本庭園風にしていると聞いているので、飛行機に乗れないイェリネクに、日本庭園の写真集をささやかなお祝いに送ろうと思う。

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