平成17年(2005年)4月3日
引用の重層性と声の複数性、「同時性」のどかさの背後にひそむエネルギー 山本浩司
ジムルターン インゲボルク・バッハマン著 大羅志保子訳 2310円
知的な女たちの生き方あるいは死に方をテーマに
(前略)さて本書は詩人が生前発表した最後の小説集である。女性の視点というよりも瑞々しい詩的な文体が際立つ第一短編集『三十歳』(白水社刊)に対して、本書は『マリーナ』の問題意識を引き継ぎ、一貫して女性、それも国連通訳やジャーナリスト、小説家など知的な女たちの生き方あるいは死に方をテーマとする。彼らは一様にファザコン気味だ。『マリーナ』の夢で繰り返し女性の「私」を虐待殺戮する父の幻影、マリーナという名の精神的に圧倒的な優位に立つドッペルゲンガー、本書の「湖に通じる三本の道」の父親やツェランの面影濃い元恋人トロッタ、「ほえ声」の医者、暴君から自我理想までの振幅をもつものの、いずれもつねに寄りかかるべき権威として描かれている。一方の女は、どこか依存的であって、失恋の痛手も乗り越えられない。
このいかにもバーナルな女性像を女性解放が緒についたばかりの時代の限界と片付けるのは簡単だが、戦略的偽装の匂いを嗅ぎとることもできる。『マリーナ』では、断片的で刹那的なパセティックな「女」のひとり語りが、理知的で客観的な報告体に回収されていく過程、いわば情熱の死が丹念に跡づけられていていた。その流れで読むならば、過激な文体実験が跡形もなくなり、女たちの日常を淡々と描くかに見える本書も、のどかさの背後に激しいエネルギーを隠し持っていることが理解できるだろう。ひとつには「湖に通ずる三本の道」でロート、アメリー、ツェランなどオーストリア=ユダヤ的遺産が参照されるように、アウシュヴィッツ以降の文学の問題が重層的に取り組まれている。他方で引用の織物と化すことによって、テキストは複数の声の競合する場となる。『ファウスト』から引いた表題をもつ「幸福な二つの目よ」は、二つの言説の抗争とい『マリーナ』のテーマをまったく違う色調で描いている。愛の盲目が寓意化されたド近眼女は、現実を脱魔術化する眼鏡を拒絶しつづけ、親友に恋人を寝取られるという形で現実に裏切られる。『マリーナ』が一人称の視点で恋愛の情念を息苦しいまでに高めていったのに対して、この小説では三人称の語り手が登場人物複数の視点も自在に我がものにすることで、晴れやかなユーモアを生み出している。引用の重層性と声の複数性、表題の「ジムルターン」にならえば、「同時性」、これらこそが、文学の規範に従属して作品の形式的統一をみせかけつつ、それを内部から解体すべくしかけられた戦略だったと言えるのではないだろうか。