「毎日新聞」

平成18年(2006年)6月25日(日曜日)

本と出会う−批評と紹介より 堀江 敏幸 評
ロマネスクの透明度―近・現代作家論集 高橋英夫著 1995円 

当たりはやわらかく、切り口鋭く
 解説、と呼ばれる文章の形態がある。長文の批評や、短い書評のあいだに位置しているもののひとつだが、便宜上そう呼ばれているだけで、実際には、小説や詩以外の、すべての散文の要素が入り込んでくる、きわめて敷居の高い領域だ。読者にわかりやすく説明するためだけにではなく、枚数制限や媒体の特徴を意識した書法の選択など、さまざまな拘束を引き受けながら、なお自然な流れを保って書き手の立場を明確にしなければならない。
(中略)ところが、いつの頃からか、この種の仕事に対する世間の目が冷たくなってきた。かりに書物にまとめられても、書き散らした短い文章をただ集めただけといった、どこか棘のある言い方をされることも少なくない。そういうきびしい状況のなか、高橋英夫は「近・現代作家論集」の副題を持つ新著のあとがきで、自らに言い聞かせるかのように、静かな口調でこう宣言する。
 「しかし文芸評論にとって、作家論を書くことはまず基本的、基礎的な頭脳と指の訓練を意味しており、それと同時にこの仕事こそ文芸評論の一番中核的な部分を築いてゆくことでもある。この点は以前も今日も変らない筈だと私は思っている」
 まさしくその通りだろう。ただし「基本的、基礎的」というのは控えめな表現である。なぜならここでは、基礎的な思考訓練がそのまま独立した鑑賞に耐える芸文として成り立つように仕上げられているからだ。扱われる作家は、総勢二十二人。うち五人が女性の書き手となっている。どれもこれも、当たりはやわらかく、切り口は鋭い。
(中略)あるいはまた、徳田秋聲を語る段で、「哲学の欠如」だの「無思想」だのという非難を泰然とやり過ごしていた秋聲が、戦中の言論統制のまえに筆を折るまでを簡素に追ってから、「いささか逆説ふうにいえば、『哲学』には屈せず、時代に屈したところに、秋聲の秘められた真骨頂がある、と見たい」と、常套の裏側からの読みを提示する。こうした一節が、随所に挿入されることで、小綺麗にまとまってしまう危険が回避され、細部をダイナミックに読むたのしさが保たれるのだ。
 さらにはまた、吉田健一を語るにあたり、その導入部として『金沢』全編を正字旧仮名で原稿用紙に筆写したら、三百枚の最後の一マスでぴたりと収まった、という生々しいエピソードを冒頭に置くことで、手触りのある「時間」のたゆたいへ読者を誘う。
 書名は島村利正を論じた一編から採られているが、「ロマネスクの透明度」とは、作家の側だけではなく、読み手の眼の、幾重にも光の重なった透明度でもあることを肝に銘じておこう。一九七二年、川端康成の自死の直後に書かれた一文は、この小説家の不吉な核に手を触れながらも、ことに高い透明度を獲得して忘れがたい。