―古田織部研究―
「泪の茶杓」の里帰り
ORIBE研究家 久野 治
現在、徳川美術館で保管せられ毎年、千利休(1521〜91)の命日にあたる、2月28日を前後して公開され、多くの茶道ファンに感動を与えている「泪の茶杓」は、いまから四百年も昔の天正19年(1591)、ときの天下人・豊臣秀吉の勘気にふれ聚楽第を追われ、舟で堺へ下るとき、淀の渡し場近くで見送りにきてくれた古田織部(1544〜1615)へ、礼状に添えた千利休形見の茶杓である。(それで利休に茶道を学んでいた諸大名も、秀吉の機嫌を損ねることを恐れ、遠ざかる状況にあった)春まだ浅き2月13日のことである。
堺に戻った利休は早速、茶道の上では弟子にあたる織部には「泪」と銘する茶杓を、いま一人見送りにきてくれた羽柴与一郎「のちの細川忠興(1563〜1645)」に銘「いのち」という茶杓をおくった。一説には銘「羽与殿」あるいは「ゆがみ」と言われた、とあるが、この場合「いのち」が適切であろう。しかしこの茶杓は現存しない。
利休は2月14日に右の2本の形見の茶杓を、それぞれに届けさせた上、伜の千超安(1546〜1607)に今日でいえば、遺産相続にあたる「財産分与」の文書をしたため、また、有名になった「遺偈(ゆいげ)」および「辞世」を書いたのて2月27日、上洛。翌28日京都葭屋町の屋敷において自裁した。70歳であった。
そこで織部は茶道の師である千利休の賜死をいたく悲しみ、共筒を黒漆で塗り、そのうえ中央に四角い窓を開け、中に入れた茶杓が見えるようにして、床の間に据え毎日礼拝した、と伝えられている。織部が利休との死別にあったのは48歳のときである。
豊臣秀吉の茶頭であった利休の失脚により、代わって天下第1等の茶人となった織部は、利休が定型化した小間の侘び茶に加えて、武家風ともいうべき「式正織部流」をつくり「やきものの織部」とともに、桃山文化を形成、おりからのゴールドラッシュと相まってわが国はルネサンスを迎えた。わが国は勢い余って文禄・慶長の役とよばれる朝鮮国への侵攻を企てたが、慶長3年(1598)豊臣秀吉の病没により撤兵。そのあと関ヶ原のたたかいなどを経過して徳川家康により江戸幕府ができる。
秀吉の死去とともに隠居した織部であったが、関ヶ原の戦いのとき「東軍」についたことから、徳川2代将軍・秀忠の茶道の指南役となり、順調に推移していたところ慶長17年(1612)前後から、東・西の風雲かしましく燃えあがるなかで、織部はハト派的発想で、東・西の平和共存を願って奔走。それは家康の意に反することであった。
かくして方広寺の鐘銘事件を契機に、大阪冬、夏の陣をもって豊臣氏滅亡。慶長20年(1615)6月11日、織部に対しても切腹の上意、このとき織部は一言の弁解もなく、従容として長男の重嗣と差し違え、その後二男以下の五人(一人は戦死)は皆切腹して一家は断絶。遺品の茶道具類は徳川家が没収する。以来、江戸時代はお咎め、もしくは謎の人物として誤り伝えられて来た。平成元年(1989)私が72年の生涯を明らかにして、「古田織部の世界」を刊行、これが梶原岐阜県知事の目にとまり、平成9年(1997)には岐阜県としては「織部賞」が制定され、「オリベイズム」の普及、平成13年(2001)春には、織部の生誕地である本巣町では「道の駅。織部の里もとす」(織部展示館)が開駅するに至っている。
かつて千利休から、その形見として贈られた「泪の茶杓」は、いま安住の地ともいうべき古里へ、里帰りしてもよいと思うが如何であろうか。
【解説】
「泪の茶杓」は、およそ20センチメートル弱の竹の箆(へら)であるが、茶杓を真、行、草に分けるとするば「草」の部類で、中央に節を置き、おそらく荒削りは慶首座(けいしゅそ)(南方宗啓とも)で、利休が好みの儘に仕上げたものと思われる。素材、形、姿とも気品よく、風雅にも富み、利休は愛用していたものと推察される。