近年はちょっとした荷風ルネサンスではなかろうか。荷風日記などをもとに彼の旧居や足跡をたどるエッセイが書かれたり、フランスでの荷風を再現したり、いろいろある。彼の遺宅がある市川市八幡の商店街には、「荷風ノ散歩道」と書かれた旗が街路灯ごとに吊り下げられている。そういえば、先年、市川市の文化会館で永井荷風展が開催され、なかなかの賑わいだったが、その入り口に子供たちとたわむれる荷風の写真が大きく掲げられていた。「温顔の文豪」といった趣だが、あの人嫌いで狷介な荷風のイメージとはことなる展覧会の意図には違和感を持った。「やさしいおじいさん」など、とんでもない。市民ともほとんど接触のなかった荷風は孤独のうちに死んだのだ。おそらく本人も覚悟していたようだ。
荷風は1959年4月30日、80歳で死去しているからまた死後50年に満たない。彼と接したことのある人、ないし同時代人として見聞を持つ人はまだ多いだろう。しかし本書の著者小島政二郎は中学四年生のとき、荷風の『あめりか物語』を読んで感動し、文学を志したというからおそろしく古い。しかしそこが値打ちなのだ。同時代感覚が生き生きと再現されている。『あめりか物語』の出版は1908年。当時の文芸界は、北原白秋『思ひ出』が刊行され、与謝野寛の新詩社が全盛を誇っていた。また小山内薫の自由劇場がイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を上演した。この鴎外訳が「国民新聞」に掲載されたのも異例のことだったという。当時、小島政二郎は15歳。文科を志望しても父の許しが出ようはずもなく、前途に迷い、学業もおろそかになっていた。やはり実業に就くことを求められ、アメリカでも銀行勤めをさせられていた荷風の青春と重ね合わせて小島は自分の学生時代を振り返る。やがて荷風が慶應義塾に招かれると志望をごまかして入学する。文科は予科生が15人しかいなくて2年になると小島と三宅周太郎の二人以外ことごとく落第した。これでは文科の復興など望めない。荷風は長くは存任せず小島らも失望するが、帰朝した沢木四方吉が『三田文学』を復刊したことで大学に残れることになる。……しかしこれは後の話で、本書は遊学時の荷風をさらに詳細に叙述する。素材は『西遊日記抄』。荷風はもとより銀行員になどなる気はない。父にそむくこと(彼にはそんな勇気はない)ができず、表向きは銀行員だが、劇場に通って連日のようにオペラや音楽を鑑賞、さらにフランス語の勉強をする。こういうことには勤勉そのものだった。女ともなじみになる。遊学前からすでに遊蕩児だった荷風はイデスという女に親しむが、フランスに渡る折に手を切る。彼ははじめから別離を用意しているのだ。鴎外が帰国した後エリスが後を追って来日した。このことについて荷風は「鴎外先生は日本にいたとき全然遊んでいないからああいうヘマをやるのだ」ち自慢げに言ったのを私はこの耳で聞いている、と小島は書く。
明治・大正の文芸界の話が出てきて巻を措くことのできない記述がつづくが、はしょって書くと、荷風は父の死後その遺産を相続する。当時は長男が相続することになっていたから荷風はそれを取り、母にも弟威三郎にも分与しなかった。さらに、その母の不要を弟に押しつけながらその弟を悪しざまに言う。人格を疑わせるところだ。荷風は面と向かって断ることのできない人で、面談で承諾してもあとから書状で断りを入れる。いきさつが表に出ると相手がすべて悪いような書き方をする。今日生きていたら荷風はメールで書き込みをしたかもしれない。
私家版や「四畳半…」などの執筆意図にも筆が及び、荷風を活写した好著で、本書が1972年にできていながら未刊だったことがむしろ貴重なことに思う。時代を30数年さかのぼった感覚で読むことを勧めたい。 (本誌編集)