諏訪市出身で、日本学生航空連盟の指導員などとして、数千人の学生らにグライダーの操縦を教えた故原田覚一郎さん(1912−2001年)の伝記。80歳を超えてもグライダーに乗った「覚さん」の生涯を、同連盟元事務局長の著者が記した。
覚さんが初めてグライダーに搭乗したのは、兵役を終えた直後の1934(昭和9)年。後に在野の考古学者として知られる幼なじみの藤森栄一さんに誘われ、霧ヶ峰で試乗した。
その後、地元のグライダー研究会に所属。外国人専門家の講義を受けたり、各地の講習会に参加したりしながら実力を上げ、太平洋戦争中の42年には、当時の文部省に技官として採用された。だが、教え子たちは次々と戦場に向かい、自身も終戦間際の45年6月に陸軍から再度召集を受けてしまう。
戦後、再びグライダーに携わったのは終戦から7年後の52年。指導員として学生を教え、埼玉県熊谷市の妻沼滑空場建設にも尽力した。学生が一人前の社会人として通用することを考えながら、声を荒げず丁寧に教え諭す指導法は、学生たちに慕われたという。
戦前の訓練生が戦場で亡くなった経験から「平和な空が続くように」と祈り続けた覚さん。その名は、大学グライダー対抗戦に「原田覚一郎杯」として残されている。