『テレビの時間』   


福井新聞 読書欄より
       平成19年(2007年)7月22日

―等身大の日常を移す鏡―       
                            松尾羊一・放送評論家

テレビを野球にたとえるなら、大山勝美は自らもプレイヤーとして生涯一捕手の好位置から、各ポジションに散ったグラウンド内の選手たちの動向を観察した。そして「テレビとはなんだろうか」と、放送現場史を語りに語っている。 
 大群衆は面白いゲーム展開には熱狂もするが、ラフプレーはブーイングか黙殺で迎え、閑古鳥が鳴く試合もある。見えない大衆が数値化され、それぞれの日常性を踏まえて寄り集まる。壮大にして微少にも及ぶ電波コロシアム、それを放送と呼ぶ。
 テレビは茶の間や個室に気軽にやってくる。もちろんタダ(?)である。先行メディアの演劇や映画は、退屈な日常にはない非日常の空間に招かれ、楽しむ(ただし有料)が、テレビは日常(現実)を写す鏡だ。等身大の「日常の中のドラマ化」である鏡を見て、人々は知っているつもりだった「既知」(日常)の世界に「未知」の領域を発見する。 
 放送を映像ジャーナリズムから分析する学者や評論家は多い。著名は演出家や有名タレントの回顧録風なエッセイ書もあふれているが、どうも全体を見渡し得ていないうらみが付きまとう。勝手なテレビ観が飛び交っている。
 大山はテレビという「怪物」をなだめすかし、飼いならす手立てを長い現場生活によって獲得し、そこにさまざまな仮説を抽出しては、テレビ世界を放送人の立場から説き明かす。
 前半をテレビ局内部からの制作論としての「テレビ業界編」とし、後半を「人物論」でまとめ、役者やタレント、作家たちは制作現場の、いわば「立ち位置」から説き明かす全480ページの大著である。
 放送専門誌や新聞、パンフレット、講義メモとして発表された論文で集約した造本構成だが、既成の論文を単に再構成した書とは違う。主にドラマの制作過程を光源にして集まった事象が時代を映すのだ。そこに不思議な魅力を放つ。特に放送などメディア志望の若い人たちには必読の実践書として薦めたい。